2021年05月29日
先天性心疾患のあるお子さんへの歯科治療
先天性心疾患をお持ちのお子さんの保護者やご本人、歯科医師をはじめとする医療関係者の方々のご参考になればと書いてみました。
・歯科治療前の抗菌薬投与の必要性
出生するお子さんの約100人にひとりに先天性心疾患があり、その大多数が成人する時代となりました。
小規模な歯科医院でも年間に数人は来院があることになります。
医療の進歩によって手術や定期的なフォローを受けながら(程度や状況は様々ですが)心疾患のない方と変わらずに、あるいはいくつかの留意点に気をつけながら元気に生活している方が増えています。
先天性心疾患の患者さんを感染性心内膜炎(IE)から守りながら必要な歯科治療を実施するために、治療前に抗菌薬を投与すべきケースがあります。
IEとは、たとえば歯科治療によって一時的に細菌が血液中に入り、心臓にウイークポイントがあるお子さんでは特に、細菌がその部分に溜まってしまうことによって起きる生命を脅かすことのある感染症です。
虫歯(むし歯)を引き起こす主役と言われていたミュータンス菌を含む口腔レンサ球菌もIEの主要な原因菌であることが知られています。
手術やフォローを担当した医師をはじめとする医療者や保護者が維持してきたお子さんの健康を歯科医師が脅かすことがあってはならず、医師の指示や
日本循環器学会のガイドライン
の弁膜疾患のNo.32「感染性心内膜炎の予防と治療に関するガイドライン」に従った対応が求められます。
・歯科診療の準備と手順
小児歯科専門の当院での対応例をご紹介します。
緑色文字部分は医療関係者向けの記述です。
問診表等から先天性心疾患があることが判明したら、保護者に心疾患の種類と正確な病名、主治医(多くはこの時点では小児循環器科の医師)の所属病院と名前、手術の既往や今後の予定、今までの経過、現在服用している薬剤等についてお聞きします。
お子さんのお口の中の詳しい診査をおこない、可能ならX線撮影をします。
この時点で虫歯(むし歯)等の程度もわかり、緊急時に全身管理のできない歯科医院でも歯科治療を実施可能かどうかがある程度判断できます。
全身管理と小児の歯科治療の両方が可能な病院(神奈川県なら県立こども医療センターなど)での歯科治療実施が望ましいお子さんはそちらへの紹介を検討します。
当院での歯科治療や予防処置実施が見込まれるお子さんについては、虫歯(むし歯)治療や抜歯、歯石除去、予防処置その他の診療計画を立てます。
お子さんの体重を計測または確認します。
緊急を要する処置がなければ初日はここまでとし、小児科の主治医に対診書を書きます。
先天性心疾患をお持ちのお子さんの中には歯科治療の際に抗菌薬の処方を受ける必要を記載した病院からの文書やカードを持参してくださったり、既に歯科治療用に数回分の抗菌薬の処方を受けて所持されているケースもあります。
これらは医師から歯科医師への「歯科治療の際は事前投薬を要する」というメッセージです。
病院からの文書の一例です。
IE予防のために 病院文書PDF_20210528_0001
原則としては、より詳細な情報や歯科治療に際しての助言を得るために対診書を書いて郵送することをお薦めします。
対診書の一例です。
対診状サンプルPDF
なお、この対診書は診療情報連携共有料として保険診療請求の対象になります。
主治医から返信をいただき、歯科治療前の投薬が不要であるとの内容なら通常どおり治療をします。
・投薬が必要な場合には
主治医からの回答が「歯科治療時全般に予防投薬が必要」あるいは「観血的処置(抜歯などの出血を伴う処置)の際は予防投薬が必要」であればガイドラインに従ってアモキシシリン50mg/kgを歯科治療の1時間前に服用してきていただく手配をします。(ペニシリンアレルギーがない場合)
これは通常なら一日数回3日間で服用する量の1日分の2.5倍を、歯科治療の1時間前に全部服用していただくことになる特別な処方です。
1時間前に服用する理由は、抗菌薬の血液中の濃度が服用後1時間から2時間の間に最大値を維持するので、その時間帯に歯科治療をすれば感染予防効果が高いからということです。
院外処方の場合には薬局の薬剤師さんにもあらかじめ連絡をしてこの変則的な処方箋について打ち合わせをしておき、保護者には連携済みの薬局をご案内します。
また、観血処置の範囲は必ずしも抜歯や手術だけでなく生活歯髄切断法などの歯髄処置も含まれると私は考えています。
体重に応じたアモキシシリンの投薬量です。
処方箋の一例です。
このような事例ではレセプトに摘要欄記載が必要です。
当院では摘要欄に「先天性心疾患のため小児科と連携し投薬下に歯科治療実施」と記載して提出しています。
神奈川県ではこの件に関する保険者やレセプト審査員の方々の理解が進んでいて、返戻されることはありませんが、地域によってはより詳しい説明を求められるようです。
抗菌薬の投薬下に歯科治療をおこなった時にも、治療後に発熱がないか、大きな体調の変化がないかを観察していただき発熱等があったら小児科の主治医と当院ににすぐに連絡するよう保護者によくお話しします。
一連の歯科治療が終わったら、虫歯(むし歯)等の歯科疾患のリスクに応じた必要な間隔で綿密な定期診査を続けていきます。
当ブログ「小児歯科専門医の虫歯(むし歯)診査法」もご参考ください。
当院では各種フッ化物応用はもとより、シーラントも積極的におこなって「攻めの虫歯(むし歯)予防」を心がけています。
シーラントについては当ブログ「小児歯科診療 シーラント」もご一読ください。
IE予防のための投薬をしてきたお子さんに新たな治療や抜歯の必要が生じたら、上記と同様の手順で投薬下に実施します。
ここで問題になるのが生え替わりの乳歯がご家庭で抜けたり、歯科医院でごく簡単な抜歯を要する場合にも抗菌薬を服用するかという点です。
小児循環器科の医師の多くは生え替わりによるものには服薬の必要なしと考えておられますし、自然な歯根吸収が起きてグラグラと動揺して脱落するようなケースには服薬は必要ないと考えて良さそうです。
しかし、歯と顎の骨の大きさの不調和(Arch Length Discrepancy)が大きく、後継永久歯による乳歯の歯根吸収が起きていない場合などでは、自然に脱落することが期待できないのでケースによっては歯科医師の判断で投薬下に積極的に抜歯をおこなうべきと考えています。
写真は日常的によく遭遇する下の前歯の生え替わり期に乳歯が抜けずに永久歯が生えてしまった例ですが、歯根が長く残っているために乳歯が揺れてくることもないので抜歯が必要です。
通常の生え替わりの乳歯を抜くのに比べて長く薄く残った歯根のために多少の技術や経験を要します。
事前の抗菌薬投与が必要なお子さんの場合は服薬いただいて積極的に抜歯しなければなりません。
・歯科医師側で判断が必要な場合
またそれ以外の歯科治療についても日本循環器学会のガイドラインからは解釈しきれない部分もあります。
先ごろ、日本小児歯科学会のオンラインシンポジウムでこのテーマを取り上げてくださったこともあり歯科医師側の論点も整理されつつあります。(月刊小児歯科臨床2021年4月号 東京臨床出版 にその一部が掲載されています。)
ラバーダムの使用そのものに際しても投薬すべきこともありますし(ラバーダムについては当ブログ「小児歯科とラバーダム 続編」をお読みください)事前に歯髄の状態を判定することが困難なこともある(生活歯と判断して治療を進めたら複数根管の一部で歯髄が失活している等)ので、そのようなときにはより重度な状況を想定して投薬するかどうかを決めることになります。
私の個人的な考えでは、ラバーダム防湿下で実施するなら生活歯髄切断法、抜髄法はもとより勝算の確実な感染根管治療も抜歯せずに治療することが可能なのではないかと思います。
要はその歯が将来にわたっても再感染することなくIEの感染源にならない状況を作ることができれば良いということではないでしょうか。
この部分はラバーダムの常用を含めた歯科医師の診療環境等にも左右されるのかもしれません。
日常的にラバーダムを使用せず、乳歯の感染根管治療の予後が不安定だったり再治療が多いような状況の歯科医院ではむしろ抗菌薬投与下での抜歯という選択の方が確実なIE予防につながるのかもしれません。
診療環境の差とは別次元の話として、IE予防のために乳歯の歯髄に達する虫歯(むし歯)は治療でなく全て抜歯をするという方針もあります。
上記シンポジウムのシンポジストのおひとりで小児専門病院所属の小児歯科専門医もそのご意見でしたが、これは感染源を徹底的に排除する考えに基づくものと思います。
・将来の健康観の育成や周囲の理解
お子さんが小さいうちは、歯科治療時に抗菌薬の投与が必要なお子さんの服薬の管理は主に保護者が担っていくわけですが、将来成人後にひとりで歯科医院を受診する際にも上記のような対応が必要であることをお子さんご自身にも徐々に理解していただくことが望まれます。
私たち歯科医師の責務は歯の健康を維持していくことがIE予防に直結することを保護者やご本人にも理解していただくよう努めながら、そのお子さんのリスク(先天性心疾患と歯科疾患双方の)や個性、生活習慣に応じた方法で歯科治療や予防を実施し、定期診査を続けていくことかと思います。
歯科以外の部分では過労に注意したり極端な肥満やピアッシング等を回避すべきケースもあるでしょう。
保護者やお子さんご本人が先天性心疾患とつきあっていく上での健康観の育成については、国立循環器病研究センター(国循)の一連の動画が歯科関係者にもとても参考になりますのでリンクさせていただきます。(残念ながらその後動画は非公開になってしまいました。)
「心臓病の子供が大人になったら」
「こどもの心臓病―これから大切なこと」
また、当院の小学生の患者さんの中に「友だちに先天性心疾患のことを知られたくないので学校のトイレで服薬した」という例がありました。
このあたりは学校関係者、小中学生の場合は少なくとも担任と養護教諭の先生方には上記したことをご理解の上でご配慮いただければと思います。
以上、長文におつきあいいただきありがとうございました。
誤りやお気づきの点がありましたらご一報いただければ幸いです。